毒親が死んだら嬉しく思うのか
有益な情報発信は出来ないと思ったので、思考を垂れ流す「ただのブログ」をしばらく書いてみることにした。
今回は、ときどき考える「毒親が死んだら嬉しく思うのか」ということに関して。
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「毒親が死んだら嬉しく思うのか」と、ときどき考える。
現段階での答えは「分からない」である。
というか、不謹慎なことを言うと、どういう感情になるのか楽しみである。
とはいえ「死んでほしい」とは思わない。
毒親のことを考える時間が勿体ないというか、別のことに時間を使いたいというか。
とにかく関りたくない。
人が死ぬとき、いろいろと動く必要があるだろう。
それを毒親のためにしたくない。
ありがたみは感じるのか?
「親のありがたみは、死んでからじゃないと分からないよ」
こんな言葉をよく目にする。
そうかもしれない。
まだ死んでないし、それは分からない。
毒親が死んだあとのことを考えることはある。
「関わらなくてよくなって、快適だなー」しか考えられない。
僕は、親のありがたみを感じるのか?
これも、楽しみである。
ありがたみと言えば一人暮らし
ありがたみと言えば、一人暮らしをすると感じると言われている。
一人暮らしをすれば、僕は親のありがたみを感じるのか、はっきりするのかもしれない。
はっきりさせてどうしたいのか、よく分からないが。
そういえば、未だに脛を齧らせてもらっていることには感謝している。
というより「感謝するべきなんだろうな」という感じかな。
この点に関して言えば、ありがたみを感じるかもしれない。
それにしても、いい年して、こんなことを考えているなんて恥ずかしい。
ブログに書くのも、本当は抵抗がある。
恥ずかしいので、なんとかしたいと思っている。
本当に。